統一教会では、絶対信仰、絶対愛、ということが言われます。
「信仰」と「絶対信仰」は内容が違っていて、文鮮明先生のみ言を読めばこの違いはわかるのですが、
教会内部でも一部分の人にはこの違いが十分に理解されていないかもしれません。
ひろちゃんさんも、堕落して愛が相対的になってしまったとコメントしてくださいましたが、
日本が勝利できないと言われる最大の理由も信仰が絶対的基準に立てないからだと、私は感じます。
今回はこれだけやれば勝利というのは相対的で、それを1000人がきっかりやっても絶対的な勝利をもたらすことはできません。天使界を越えられないからです。
その時の目標は達成できても、同じことがまた繰り返されるでしょう。
文先生は、新しい天地に財産は無力であるとおっしゃっています。
問題は絶対信仰を立てられるかどうかです。
絶対信仰者が多くなれば神様の国を顕現させることが出来るだろうと私は思います。
イエス様はおっしゃいました。
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは
着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」
マタイによる福音書 / 6章 25節〜27節
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」
マタイによる福音書 / 6章 33節
イエス様が生きていた時代は今と違う状況だったのでこう言えたのでしょうか?
その当時も、お金持ちはいましたし、人々はそれぞれの仕事をしてお金を稼ぎながら生きていたので、今とまったく状況は変わりません。
そういう中で、イエス様はこうおっしゃったのです。
「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらうな」というのは、いろいろ食べるものがある中でどれを食べようかと思い煩うなという意味ではなく、
食べるものがまったくない状況下において、食べることを心配するな、ということです。
この真理は今もまったく変わりがないと思います。