2015年10月13日

世界平和統一家庭連合出帆、おめでとうございます。

世界平和統一家庭連合の出帆を心よりお祝い申し上げます。

昨日、幕張イベントホールで開催された出帆記念大会に、私たち夫婦も行ってまいりました。

今までにない、ものすごいエネルギーを感じる大会で、天地が揺れるのを感じるくらいでした。

今朝祈ってみると、それもそのはず、ついに「祝福家庭」が「神のもとの人類一家族世界実現」の雄叫びを上げた大会だったからです。

世界70億人類が未だ多くの涙を流している現状において、この世界を地上天国にしていく困難な道のりを確信と自信をもって、天と共に出発した記念すべき大会でした。

世界平和統一家庭連合は、神様の実体対象として正午定着した世界の中心団体であり、今後、家庭連合を中心として、世界は神様の創造理想を取り戻していくことでしょう。



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2015年09月28日

「世界平和統一家庭連合」への名称変更は、まさにペンテコステ

昨日の日曜礼拝の説教は、
「世界平和統一家庭連合 億万歳」
という題目の説教でした。

「世界基督教統一神霊協会」から「世界平和統一家庭連合」に変わったことは、
単なる名称の問題ではなく、霊的に非常に重要な意味があり、
まさにペンテコステと言っても過言ではない内容があるとのことでした。


「世界基督教統一神霊協会の使命が終わることにより、宗教の使命は終わり、救い・宗教を必要としない新時代に入る。
家庭を理想家庭にすることで、神様の創造理想を復帰完成、天的理想世界を立てる。」

「私たち統一教会は、家庭を中心とした国家救援、世界救援を唱えている」

「家庭が定着して世界に通じる家庭になってこそ、エデンで願った神様の創造理想の結実が現れる」

といったみ言が紹介されました。


私は、「そうか。日本においては、ようやく、宗教の使命を全うする基準が立ったので、名称の変更がなされたのだなあ。」と思いました。

これまでは実に険しい道のりだったと思います。
苦しくて、「救い」を自分中心に求めて分派を作ってしまった人もいたように思います。
しかし、これまでの道のりは、救いが救いで終わるための道のりではなく、もっと飛躍して神様の創造理想を実現していく段階にまで昇っていくための道のりであったのです。


統一教会の救済観は、人間中心ではなく、神中心です。

原理講論には、

「それでは、神は、この世界を、どの程度にまで救わなければならないのであろうか。いうまでもなく、その救いは完全な救いでなければならないので、神はどこまでもこの罪悪の世界から、サタンの悪の勢力を完全に追放し(使徒二六・18)、それによって、まず、人間始祖の堕落以前の立場にまで復帰なさり、その上に善の創造目的を完成して、神が直接主管されるところまで(使徒三・21)、救いの摂理をなしていかなければならないのである。」(第三章 人類歴史の終末論 第二節 救いの摂理)

と書いてあります。

救いとは、神様が人間とこの世界を救うことを言っているのであり、
人間が自分が救われたいという目的を果たすことを言っているのではありません。

ですから、名称の変更は、神様の摂理が、これまでと違う新たな段階に入ったことを意味していると思います。



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2015年09月16日

世界は何かの胎動を感じているのか

聖和3周年の喪が明けました。

世界は何かの胎動を感じているのでしょうか。

9月中旬からの重大イベント27 - YouTube

ヨベルの年も9月23日から始まるそうです。



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2015年09月10日

「何を食べようか、何を着ようかと言って思いわずらうな」と言われたイエス様のみ言の真意

マタイによる福音書の

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」
(マタイによる福音書6章31節〜33節)

というイエス様のみ言はあまりにも有名です。

このみ言を、我々の信仰姿勢として捉えることは出来るでしょう。

しかし、私はさらに、イエス様は、神様の息子として来られて、これを信仰のためだけでなく、人類が本来生きるべき神の国の姿を指しておっしゃったのだと思います。


何を食べようか何を飲もうかと思いわずらう異邦人とは、堕落して神様の愛が分からなくなってしまい、神様の愛を抜きにして自分の力だけで生きているつもりでいるこの世の人々のことであり、これまでの世の中はそういう人々ばかりの世の中でした。

しかし、イエス様が来られて、新約時代においては、神の国が一人ひとりの心の中にある時代を迎えました。

それが、我々の時代圏におきましては、真のご父母様が来られて、地上に実体として天国が出来る時代を迎えたのだと思います。

神の義が成就した本来の神の国は、みなが分かち合い、食べるもの、着るものに関して誰も思いわずらう必要のない世界です。

真のご父母様が来られて実体として勝利されたがゆえに、神の義が実体的に成就する時を迎えたのだと思います。

統一原理に基づく経済社会の打開策



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2015年07月30日

十戒

一昨日、映画「十戒」を見ました。

十戒 (映画) - Wikipedia

なぜこの映画を見たくなったのか、わかりませんが、4時間近いこの映画を、なぜか、見ました。

見始めたら、一気に見てしまいました。

そこには、モーセ(モーゼ)の生涯がつづられていました。

王宮で育ったモーセが、自分がエジプト人ではなく、ヘブライ人すなわち奴隷の子(イスラエル)であったことを知ったときの衝撃と、その後、彼が選んだ道は、何かを教えてくれているかのようでした。

彼は、奴隷の境遇を甘んじて受けながら、奴隷を解放せんとする唯一なる神への絶対的信仰を貫いたのです。

そして、渡りきるのに5日もかかる砂漠に、1日分の食料しか持たされずに追放され、限界が来て、砂漠に倒れたときに、神の摂理が始まりました。



タグ:モーセ
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2015年07月04日

旭日旗と統一旗

旭日旗(きょくじつき)は、日本の国旗です。

インターネットのウィキペディアで旭日旗の記述を下まで読んでいくと、
大日本帝国陸軍や朝日新聞、そして、いろいろな国の国旗が出て来た後に、
なんと、統一教会の統一旗が出てきます。

旭日旗 - Wikipedia

このことをみんなに話したら、
ある先輩は、一番いいものをサタンが先に取っていったんだよ、
なんて言っていました。

確かに以前の日本はそうだったかもしれません。
でも、今は神様の愛する母国となって、
旭日旗と統一旗が似ていることは、
とても喜ばしいことだと思いました。

国家と宗教が一つになったことを意味していると思います。
また、真のお父様が日本を愛してくださっていたことの何よりの証拠だと思います。

デザインの意味するところは、旭日旗は太陽を中心として燦爛と輝く太陽の光を図案化したもの、
統一旗は神様と12の真珠門を図案化したもので、両者は異なりますが、
太陽が神様を象徴していることを考えますと、見ている方向は一致しているのではないかと思います。



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2015年06月30日

秀吉が伴天連を追放した理由

豊臣秀吉がキリシタンを迫害したことは知っていましたが、
先日、ある壮年と話をしていて、秀吉が伴天連を追放した理由として、
日本人が奴隷として売買されていたことがあったということを知って、
私は非常にショックを受けました。

バテレン追放令 - Wikipedia
奴隷貿易 - Wikipedia

人間を物のごとく売り買いするということは、唯物論とまったく同じで、考えられないことです。

当時は、キリスト教の正当な思想と、そうでないものが入り混じっていたのだと思います。

新世界のユートピア」(増田義郎著)を読むと、西欧がアメリカ大陸に出て行って植民地を広げていったときの様子を垣間見ることが出来ます。

これを読むと、当時のヨーロッパ人にとって未開の地の人々は果たして人間なのかという疑問すらあったことや、開拓者たちが現地の人々を奴隷にしたこと、奴隷にされた多くの現地人がヨーロッパから持ち込まれた風邪で死んでしまったこと、そして、キリスト教の宣教師には、現地人をまっとうに扱うことを国王に嘆願した人もいたということが書かれています。



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2015年06月16日

第53回「真の万物の日」おめでとうございます。 「真の万物の日」の背後に「創造本然の人間」

第53回「真の万物の日」、おめでとうございます。

今日は、久しぶりに、5時から教会で行なわれた名節の敬礼式に参加してきました。



「真の万物の日」の背後には、「創造本然の人間」の出現があるわけですが、私たちは、真のご父母様を通して、初めて「創造本然の人間」ということを聞きました。

そして、足りないながらも、私たちも創造本然の人間の位置に立たせていただくことになりました。

創造主であられる神様と心情一体化した創造本然の人間がいてこそ、この世界が、万物を真の愛で主管できる世界になるわけです。
堕落した人類にとっては不可能なことでしたが、神様の救援摂理は、創造本然の人間を出現させるところにまで到達し、この世界は、万物を真の愛で愛するという理念の存在する世界にまで到達することが出来ました。

そして、今後、創造本然の人間は、決して消え去ることはありませんし、時間と共に世界を創造本然の世界にしていきます。

安全保障問題に代表されるようなこの世の問題は人類が堕落したがゆえに発生している問題で、創造本然の人間は、もっと大上段から、この地球星を創造本然の世界にしていきます。

真の父母様の伝統を相続し、真の万物の日を祝う我々は、この世界を創造本然の世界にしていく、ごく少数の「創造本然の人間たち」なのです。



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2015年06月09日

聖和式での母の姿

母の聖和式の写真を葬儀屋さん(メモリアルさん)が持ってきてくれました。

全体で撮った記念写真に、母の姿が写っていました。
独身祝福だったのですが、霊界で待っていらっしゃった主体者の方と一緒に写真に入ってくれたようです。


聖和式.jpg


そういえば、亡くなる少し前から、誰かが来ているようなことを話していました。
誰々さんとか言って、「知らない?いろいろと詳しいよ。」なんて言っていました。
そのときは夢の話でもしているのかと思っていましたが、主体者の方が来ていらっしゃったのかもしれません。



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2015年06月02日

今日は、母の聖和式でした

今日は、母の聖和式でした。

天候にも恵まれ、母にとっては懐かしい、教会の皆様に来ていただいて、よい聖和式を執り行うことが出来ました。

私は、遺族代表挨拶を読み上げました。

「本日は、お忙しい中、母井上悦子のためにご会葬くださいまして、誠にありがとうございます。懐かしい皆様にお見送りいただき、さぞかし母も喜んでいることと存じます。
 一人暮らしが好きだった母を同居の家族として迎えた生活は、いろんな苦労の絶えない生活でした。若い頃飛び回っていた母を素直に愛せない気持ちもあり、最初は手を触れることさえ嫌でしたが、ここ半年くらいは、寝たきりの不自由な体になり、思うことが言葉として出てこない様子の母を見て哀れに思い、これまでの恨みが薄れていくのを感じました。最後は、食事の介助や下の世話までしてあげられたのはほんとうに幸いだったと思います。ずっと会っていなかった弟にも、まだなんとか口が利ける間に、呼んで会いにきてもらうことが出来たのも、天の導きだったと思います。
 もし、同居ということを考えなければ、何もかも出来ずじまいで今日を迎えざるを得なかったと思います。それが、こうして、何も思い残すことなく送り出すことが出来ました。それは、文鮮明先生ご夫妻が、両家の両方の母親といっしょに暮らすという途方もないことを教えてくださったからに他なりません。文先生ご夫妻が教えてくださったことに素直に聞き従った結果、このような幸福な結末を迎えることが出来たことを心から感謝しております。
 これからは新しい出発だと思います。今後は、残された遺族一同にも故人同様のご厚情を賜りますよう、心からお願い申し上げながら、挨拶の言葉に替えさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。」



タグ: 聖和式
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2015年05月30日

昨日、母が聖和いたしました。

昨日、母(井上悦子・独身祝福)が聖和いたしました。

床ずれで入院はしていましたが、まだまだ元気だったので、死などまったく予期していませんでした。

お父様の聖和1000日を迎えるこのときに、
これからの天の摂理のために、
私の代わりに霊界に行ってくれたのだ、
と感じます。

午前中、メーリングリストに統一経済論の論文を流した日の、午後でした。



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2015年05月17日

映画「桜田門外ノ変」を見て

最近、映画「桜田門外ノ変」を借りてきて、見ました。

映画『桜田門外ノ変』予告編 - YouTube

ずっと前に公開になった映画ですが、今回初めて見ました。

1度見て「こんな悲しい映画は一度見れば十分だ」と思いましたが、
返す前にもう一度見ておこうという気になって、もう一度見ました。

そして、当時の志士たちの苦悩が伝わってきました。


清国を侵略した西欧列強が次に日本を狙っているという状況の下で、
開国か攘夷かで国内が真っ二つに分かれる中、
開国派の井伊大老を、水戸脱藩浪士と薩摩藩士が襲撃しました。


私は、彼らが、井伊大老を斬りたくて斬ったわけではなかったという深い悲しみを感じました。
欧米列強の理不尽なやり方が、すべての人を狂わせた、ということを感じました。
当時、欧米は、欧米諸国内でも戦争をしていました。
幕末の志士たちが向き合ったのは、藩の問題でも、日本だけの問題でもなく、世界人類が抱え込んだそういった問題だったのだと思います。
そして、この歴史は、今も続いている、と思いました。

品を変え、形を変えて、今も続いています。
共産主義が現れても本質は変わりありませんでした。
混合経済が現れても、本質は変わっていません。
むろん、民主主義や社会主義でも、本質は変わりません。


統一食口である我々は、この歴史をどのように切り開くのか。
彼らの無念さを晴らしてあげられるのは、我々しかいません。

刀ではなく、理念でもって、我々は歴史を変えましょう。



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2015年04月06日

彼らの戦いは世界平和のための戦いだった

先日、新しく就任された教区長様は、霞ヶ浦の特攻隊の記念館(雄翔館)を訪れてくださいました。

最初から最後まで涙、涙だったそうです。

茨城にはこの霊界がある、この霊界をまず解放しなければならない、とおっしゃってくださり、今度、映画「永遠の0」をみんなで見ることになりました。


確かに、茨城にはこの霊界があるかもしれません。
私は今も、ほぼ毎日毎晩、神風特攻隊員たちの遺書【キミガタメ】 - YouTube にどうしても手がいってしまいます。


二十歳そこそこで特攻で死んでいった彼らの思いは、確かに、国のためとはいえ、辛かった、悲しかった、無念だったという思いが無かったといえば、うそになるでしょう。

しかし、霊界に行ったあとの彼らの今の思いは、死ぬ前とは若干違ったものがあるというのを、私は感じています。

それは、彼らが特攻で戦った戦いを最後まで戦い抜いて勝利して欲しいという願いが彼らにはあるということです。
彼らの戦いは世界平和のための戦いだったのです。

どうしたら、この戦いを勝利で終わらせて、彼らを安らかに眠らせてあげられるのか。

これをなんとしてでも成し遂げなければならないと思います。



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2015年01月27日

真のお父様が証ししてくださった、神様が与えてくださった大地

今度の県会議結成大会の案内のDMを折りながら、BGMに流していた「栄光への脱出」を聞いていて、私は涙がこみ上げてきてしまいました。

前にブログでこの歌のことを書いたのが、2010年12月
翌年の名節のときに、誰かがこの歌をご父母様の前で歌ったのですが、
その翌年、お父様は聖和されたのでした。

私は、
「 when the morning sun reveals her hills and plains
Then I see a land where children can run free.」
のところで、ぐっときてしまいました。

真のお父様が証ししてくださった、神様が与えてくださった大地は、子供たちが自由に走り回ることの出来る大地だったということに。

天一国はそうです。
誰もこの地を侵すことは出来ないはずです。



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2015年01月22日

地上天国とポピュリズム

最近、「ポピュリズム」という言葉が気になっています。

地上天国という、すべての人が幸福に生きられる理想世界を目指している我々ですが、万民に幸福をもたらすというとポピュリズムと曲解される可能性があります。

ポピュリズムは、大衆主義とか大衆迎合といった意味です。

ポピュリズム - Wikipedia

これは、すなわち、人間の主義です。人間の特に大衆を中心とした主義です。

一方、統一教会で言っている地上天国とは、神主義です。
神様を中心とした人類一家族社会です。
神様の創造目的が成就された世界のことです。

人類の真の父母である神様の理想こそが人類にとって最も幸せな世界を意味しています。


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2015年01月02日

今年は家庭盟誓を唱和するようになってから21年

さっき、相対者と話をしていて、今年は家庭盟誓を唱和するようになってから21年になることに気が付きました。

家庭連合創設からも21年になります。

わが家庭においても、これまで21年路程を経てきた感があります。
2001年5月に新しい家に引っ越し、2008年2月にも新しい家に引っ越したのは、それぞれ節目の年でした。

そして昨年4月に今の家に引っ越して、迎える今年2015年は、まさにヨベルの年です。



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2015年01月01日

新年を迎えての抱負

新年、あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

基元節3年目を迎える2015年は希望の年であると言われています。

また、今年は、弘法大師空海が高野山を開創してちょうど1200年。

高野山真言宗 総本山金剛峯寺
http://www.koyasan.or.jp/1200/


宗教が求めてきた理想世界が実現し、宗教の使命が成し遂げられる年になるのではないかと思います。

私の研究テーマは経済です。
天が理想とされる経済社会がいかなるものであるのかをたずね求めて、今年一年もまっしぐらに走ってまいりたいと思いますので、なにとぞどうぞよろしくお願い申し上げます。



タグ:統一経済論
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2014年12月14日

天のみこころのままに

イエス様は、十字架にかかるときに、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られましたが、私は、最近、この意味を考えることがよくあります。

「そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』。 」
(マタイによる福音書 26章 39節)


今まで、私は、この「みこころのままになさって」を、杯のことに対してのみ考えていました。
しかし、最近、私は、この「みこころ」を人類救済の父のみ旨全体を指していたのだということを、感じています。


イエス様が、天のみこころに委ねたご心情には、メシヤとして、全人類の救済を天に委ねるご心情があっただろうということを感じています。

苦しいからみこころに委ねたというよりも、天のみ旨を思ってすべてを委ねた、ということです。

良かったとしても、悪かったとしても、天のみこころに委ねることがとても大切だと思います。

私は、これこそが、最大級の天の伝統、レガシーだと思います。



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2014年12月08日

万物を復帰するのも、人間を復帰するのも、誰が復帰するという話なのかと言うと

昨夜、「アダムの家庭におけるメシヤのための基台とその喪失」(原理講論 p.297〜p.300)を、訓読いたしました。

信仰生活をするにおいては、とかく、自分が献金をどう勝利するかとか、自分が伝道をどう勝利するかとか、自分のレベルで物事を考えがちです。

しかし、昨晩、み言を読んで、原理講論に書いてあるのは、人間のレベルの話ではなく、神様のレベルの話であることが、とてもよく分かりました。

この違いはものすごく大きいと思います。

この認識の違いは、霊的生命をも飲み込んでしまうような影響を及ぼすと思います。


原理講論には、こう書いてあります。

「したがって、神はアダムの代わりに、彼の次子アベルを立てて、『象徴献祭』をささげるようにされた。」

すなわち、この摂理を主導したのは神様であって、アベルではない、ということです。
神様がアベルを立ててそうするようにされた、と書いてあります。

ですから、アベルが中心といっても、ほんとの中心は神様だということになると思います。

すると、

「『象徴献祭』をみ意にかなうようにささげて、万物を復帰するための蕩減条件と、人間を復帰するための象徴的な蕩減条件とを同時に立てたのちに、この基台の上で、再び、人間を実体的に復帰するための蕩減条件として、『実体献祭』をささげなければならないのである。」

の中の、「万物を復帰するため」「人間を復帰するため」というのは、誰が復帰するということなのでしょうか。


私は、今まで自分がこの部分を誤解して読んでいたように思います。

すなわち、自分が万物を復帰し中心人物に立つための信仰基台と、自分が人を復帰するための実体基台、というふうに捉えていたところが、どこかにあったように思います。

しかし、これは間違った理解でした。
万物を復帰するのも、人間を復帰するのも、神様が復帰する話でした。

神様が万物を復帰するとともに私を中心人物に立たせるための象徴献祭と、神様が人を復帰するための実体献祭、ということだと思います。

この認識の上に立たないと、正しい復帰摂理の道をたどって行くことは出来ないように思います。



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2014年12月06日

母の認知症

最近、母が認知症で、寝たきりになりました。

4月には既に脳の萎縮がかなり進んでいたようなのですが、お医者さんも気付かなかったし、私たち家族も気が付きませんでした。物忘れがひどくなる感じではなかったからです。

夏ごろに腰の手術をして、秋になって痛い痛いというのが非常に激しくなり、どこが痛いのかわからないほど痛い痛いと言う状況で、これはちょっとおかしいと、外科から精神科へ移りました。

うつの診断を受けたのですが、食欲はあるし、なんかうつっぽくない。それで、色々インターネットで調べたら、レビー小体型認知症の症状がよく似ていると思って、あちこちの病院に行って診てもらいました。
便秘でおなかに相当便が溜まっていたというのもあったようです。

今は薬で便も通るようになって、ようやく穏やかさを取り戻しました。
そして、最終的には認知症の診断と、要介護4の認定をもらいました。


ショックな話ですが、お袋が寝たきりになって、身の回りの世話をするようになって、かえって幸福感が増したように感じます。

もし、寝たきりにならずに一生終わったならば、こんなに世話をしてあげる機会もなかったでしょう。
それが、こんなふうに、世話をしてあげられることに、神様の愛を感じます。

また、認知症になったお袋は、これまでと違ってとても開放的になり、子供のように何でも思っていることをよくしゃべるようになりました。

認知症って、神様が与えてくれたものなのかな、悪いことばかりでもないなと、感謝している今日このごろです。



タグ:認知症 お袋
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